白粉以外の美白化粧品も発売

2011.08.19

江戸時代に普及した鉛白粉は、「伸びよし、つき良し、価格も安い」の三拍子揃ったすぐれものだったが、ただ1つ致命的な欠陥があった。有毒な鉛を使用しているため、長期にわたって使うと体に害が生じてしまうのだ。明治初期には幼児の間で原因不明の病気が流行した。その髄膜炎のような症状から、鉛白粉を使った母親の母乳に原因があるのではないかと噂が飛び交ったが、医学的に検証されたわけではなく、鉛白粉の使用に歯止めがかかることはなかった。状況を変えたのは、歌舞伎役者・中村福助が舞台で足の震えがとまらなくなるという1887(明治20)年の事件だ。歌舞伎役者にとって白粉は必需品。彼らは白粉をたっぷりと念入りに厚めに、しかも舞台の期間中は毎日使う。福助が特に白粉の塗り方が激しかったわけではないのだろうが、被害者は人気俳優であり、しかも事件が起きたのは天覧歌舞伎の席上だった。ここにきて、ようやく鉛の有害性が社会的に大きくクローズアップされ、鉛入りの白粉の使用が見直されるようになるのである。とはいっても、女性たちの美白志向は相変わらず強かった。

[参考情報]
POLAのアンチエイジング宣言
http://www.pola.co.jp/company/AAA/index.html

POLAの化粧品
http://www.pola.co.jp/

白粉なくして白い肌は実現できないと悩める女性たちを救ったのが、パリ帰りの化学者・長谷部仲彦だ。彼は、鉛を使わずに使用感の良い白粉の開発に成功し、1904年に御料御園白粉として発売した。安心して使える白粉の登場により、白粉マーケットは一斉に活気づく。中でも人気が高かったのが中山太陽堂のクラブ白粉と、平尾賛平商店のレート白粉だ。どちらの化粧品会社も今は残っていないが(中山太陽堂の経営権は現クーフブコスメチックスが引き継いでいる)、両社の抜きんでた強さたるや、中山太陽堂が神戸、平尾賛平商店が東京を本拠地としていたことから「西のクラブ、東のレート」と表されたほどだ。明治時代には、白粉以外の美白化粧品も発売されている。桃谷順天館が1902年に発売した化粧用美顔水だ。商品名には「白」の文字はないが、1911年のコピーには「色の白いは七難隠す、草々美顔水をお用ひあれ」とある。「浮世草子」等で使用されていたこのフレーズを用いた広告戦略が功を奏して化粧用美顔水は爆発的に売れ、桃谷順天館の基礎を築き、現在の明色化粧品へとつながるのである。